第1章 玉川上水と分水網、水車、小麦の歴史 

水の存在が当たり前ではなかった

小平が位置する武蔵野台地は、元来自然の川が存在せず、水が乏しい地域でした。

江戸時代初期、羽村から江戸市中へ玉川上水が引かれ、多摩川の水が武蔵野台地を流れるようになった後、小川九郎兵衛という人物を中心とした幕府への請願により、玉川上水から小平へ「小川用水」を引くことが許されました。こうして小平にも安定的な生活水の供給が可能になった結果、本格的な開拓が進んでいきます。

 

水はけが良すぎる土壌

とはいえ、武蔵野台地はそもそも「逃げ水の里」と言われるほど水はけの良い土地だったため、水がすぐに土に染み込んでしまい、水田としての稲作利用には向きませんでした。自然な流れとして、農業は畑作が中心となっていきます。結果として、大麦や小麦の栽培が増え、食文化にも影響を与えていきます。

 

 

 

 

商業用を中心とする水車の設置

水の存在は、飲用・食用のみならず、火災時の火消しや灌漑など、生活のあらゆる場面で必要になります。そこで、各地域の隅々まで水を行き渡らせるため、玉川上水の下流では分水が行われていきます。小川用水もその一つです。

その分水上に数多く設置されたのが、小平に今でも残る水車です。小平辺りの地域では、主に小麦を脱穀・製粉するための動力として利用されていました。小平ふるさと村では、実物の水車とその動力構造、小麦を粉として挽く設備などを間近で見ることができるので、是非訪れてみてください。

 

 

ビジネスとしての小麦の重要性

そのような経緯もあり、武蔵野台地では麦を中心とした食文化が発達し、小麦から作るうどんなどを食べる習慣が形成されていきます。

一方で、小麦は、市場で売ってお金に換えることのできる換金性の高い作物であったため、とても貴重なものとされていました。

ですから、当時の人々がうどんを打って食べる機会は、来客のもてなしや冠婚葬祭などの特別な日に限られていたそうです。

 

 

 

価格低下による小麦農家の減少

時代が進むにつれて、国策による米の生産量拡大や生産技術の発展などの影響から、市場における小麦の価格は徐々に低下していきます。

それとともに、かつてはほぼ全ての農家で小麦栽培を行っていた小平でも、その数は減少していきます。

今では、小平市内で小麦を生産している農家は数軒だけになっています。小平のみならず、日本全国において、地元で栽培された小麦から作る「地粉」を使ったうどんなどを食べることができるのは、とても貴重なことなのです。