第2章 加藤有次先生と武蔵野手打ちうどん 小平のうどん文化 人のものがたり
第2章 加藤有次先生と武蔵野手打ちうどん
小平のうどん文化 人のものがたり
「武蔵野手打ちうどん」の名づけ親、加藤有次先生はどんな人?
江戸時代、小麦の栽培が盛んだった小平の地で農家に伝わっていた小平糧うどんは、戦後、農家の数が少なくなるにつれて、うどんを打てる人も減っていきました。
そんななか、「このままでは、地元の手打ちうどんの文化が廃れてしまう」と危機感を抱いたのが、博物館学の第一人者で國學院大学の教授だった加藤有次先生でした。
加藤先生は、1932年(昭和7年)に小平市で生まれました。実家は農家で、父親がうどん好きだったため、小さい頃から、母親が打つうどんを毎日のように食べて育ちました。それは、畑仕事で忙しい農家の主婦が、夕刻の短い時間に手早く打って家族に食べさせた家庭料理のごちそうでした。
加藤先生は、子どもの時分に食べた母親の打ったうどんの味が忘れられず、30歳を過ぎた頃から、「もう一度あのうどんを食べたい」と思うようになりました。しかし、母親はすでに亡くなっていました。
舌に残る味の記憶を頼りに、加藤先生はうどん打ちの試行錯誤を続けます。1986年には小平市内の自宅の庭に「有山庵」と名付けたうどん打ち専用の庵を建て、訪れる人を手打ちうどんでもてなしました。
先生は、全国のご当地うどんを研究する“うどん博士”でもありました。東京の多摩地域から埼玉に広がる武蔵野台地で収穫された小麦粉(地粉)で打った手打ちうどんを「武蔵野手打ちうどん」と名付け、また、多くの人に故郷のうどん文化を伝えるために、1988年(昭和63年)には『武蔵野手打ちうどん保存普及会』を発足させました。
小平出身で「うどん博士」として知られた加藤有次先生
写真は有山庵。加藤先生はここで、客人をうどんでもてなし、テレビや雑誌の取材を受けました。
加藤有次先生のうどん文化への思い
加藤先生が過去の食文化の復興に取り組んだのは、単なる郷愁ではなく、食文化には、その地域や時代ごとに知恵や工夫が加えられており、土地の生活の原点がある、と考えたからでした。武蔵野地域に伝わる手打ちうどんを大切な食文化ととらえ、博物学の対象として研究していったのでした。
そして、食文化は、若い人や土地に移り住んだ人たちに、より伝えることが重要だと加藤先生は考えていました。
その土地に移り住んだ人たちは、土地の歴史的風土、自然風土、そして風俗習慣を学ぶ必要があり、その地域文化の中心にあるのは、食文化だからです。
小平市の人口は、2022年(令和4年)には19万6000人を超えました。そのうち、江戸時代から代々小平の地に住んでいる人は1万人ほどといわれ、多くは移り住んだ人たちです。そういう人たちが次の世代を育て、町の未来をつくっていくとき、地域の歴史的風土、とりわけ食文化を知ることがますます重要になっていきます。
私たちは、豊かな未来を作るため、郷土料理の伝承に取り組んだ加藤先生の思いを大切にしていきたいと思います。(大)
コラム記事
小平市の鈴木遺跡の発掘でも尽力
加藤先生は、「うどん博士」としてテレビや雑誌で活躍し、武蔵野うどんの普及に努めましたが、考古学の分野でも、小平市に大きな功績を残しました。1974年(昭和49年)6月、現在の鈴木小学校の工事現場で発見された大きな溝の跡や不思議な穴について、市役所から相談を受けた加藤先生は、「それは江戸時代の水車小屋の跡だが、その場所には、ずっと古い時代の遺跡があるかもしれない。発掘調査をしたほうがいい」と判断しました。7年前にほぼ同じ場所で遺物が発見され、「回田遺跡」の名で報告されていたことを知っていたからでした。
3日間という約束で発掘調査が行われ、期日の最終日も終わろうとする頃、赤土の中でシャベルの先がカチリと1つの石に当たりました。3万数千年をさかのぼる、旧石器時代の遺跡、鈴木遺跡が「発見」された瞬間です。その後も調査が行われ、鈴木遺跡は、日本の後期旧石器時代を代表する遺跡であることが明らかになり、令和3年3月、国史跡に指定されました。
(大)